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執筆者の写真西野 智也

【ピアノ演奏温故知新】第27回エドウィン・フィッシャー

【ピアノ演奏温故知新】では過去の偉大なるピアニストとその奇跡的なピアノ演奏を数多くご紹介していきます。

第27回はリストの流れを汲む優れたピアニスト、指揮者、教育者であった『エドウィン・フィッシャー』をご紹介します。



エドウィン・フィッシャー(1886~1960)

シュナーベル
 

略歴

1886年スイスのバーゼルに誕生する

1890年母親の下でピアノ学習を始める。

1896年にバーゼル音楽院に入学しハンス・フーバーに師事する。

1904年父が亡くなったのを契機にベルリンに移住。シュテルン音楽院でリストの晩年の弟子のひとりマルティン・クラウゼに師事する。

1905~1914年シュテルン音楽院ではやくも教授になる。この時期にブゾーニとオイゲンダルベールの知遇を得て演奏の助言をもらう。

1926年リューベック協会指揮者になる

1928年ミュンヘン・バッハ協会指揮者になる

1930年アルトゥール・シュナーベルの後任としてベルリン音楽大学の教授となる。

1932年フィッシャー室内管弦楽団とフィッシャー・トリオを結成しヨーロッパ各地を巡演

1938年から戦後にかけてはザルツブルク音楽祭にレギュラー出演しウィーン・フィルとの共演は恒例となる。

1943年スイスに帰国しヘルテンシュタインに居住。1955年までルツェン音楽祭でピアノのマスター・コースを開設し若い音楽家の教育にあたる。 1954年最後の演奏会を行う 1960年チューリッヒで死去(享年73歳)

 

フィッシャーの代名詞のバッハの弾き振り

バッハ:チェンバロ・コンチェルト 第5番 BWV1056

 

演奏スタイル

エドウィン・フィッシャーは戦前のバッハの大家として名を馳せました。現代の感覚から見るとフィッシャーのバッハは非常にロマン派的で非常に自由に演奏しているように聴こえます。それに対してバッハ以外の作曲家では非常に厳格なスタイルを採っているところは非常に興味深いです。特に似たレパートリーを持っていた同世代のシュナーベルに比べるとその差は特に強く感じることが出来ます。フィッシャー、シュナーベルともに火花を散らすような技巧で人々を圧倒するようなことはしなかったという点では共通しており柔らかな音色、自然な表現、心技体の見事なコントロールを実現していました。 レパートリーはバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ブラームスに限定されており、若いころは同時代のヒンデミット、スクリャービン、メトネルの作品やショパン、ドビュッシーも弾いていたようだが録音は残っていません。室内楽奏者や伴奏ピアニストとしても優れた録音を遺しています。

 

フィッシャーのベートーヴェン

ベートーヴェン:ピアノ・コンチェルト 第3番 作品37

 

同時代の人物による評価


ダニエル・バレンボイム(ピアニスト)

私がそれまでに聴いたピアニストの誰よりも自然なレガートを持っていた。彼はペダルを使わずにレガートを演奏することができた。ということはつまり、彼はペダル使ってもっとほかの表現をつけ加えることができる、ということでもあった。


アルフレッド・ブレンデル(ピアニスト)

『天才のピアノ演奏とは、いかなるものを指すのか。正確さと同時に大胆さをそなえた演奏である。その正確さは、演奏のあるべき姿を教えてくれる。その大胆さは、人を驚かせ圧倒する演奏によって、不可能と思われていたことが可能になるのを示してくれる。』

ジョージ・ケーラー(音楽評論家)

『エドウィン・フィッシャーは、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンのピアノ音楽で最も優れた演奏家の一人だった。彼の演奏は作品に対する深い敬意、作品の中に自己を埋没させる能力、表現の深さと純粋さが特徴だった。フィッシャーの芸術には偉大さと同時に簡潔さがあった。』


フィッシャーの格言

演奏家としての姿勢について

『厳しい修行、顕著な才能、骨の折れる努力だけでは充分とは言えない。人はその全人生にかけて、偉大な思考と気高い感情とを結び合わせるべく、努力せねばならない。いかなる行動も、いかなる思考も、その人格とつながっている。最も些細な行動にいたるまで、高潔なるものを帯びていなくてはならない。』

 

戦前のシューベルト演奏の決定版

シューベルト:即興曲 第3番 作品142

 

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