【ピアノ演奏温故知新】では過去の偉大なるピアニストとその奇跡的なピアノ演奏を数多くご紹介していきます。
第28回は作曲家であり20世紀最高のピアニストでもあった『セルゲイ・ラフマニノフ』をご紹介します。
セルゲイ・ラフマニノフ(1873~1943)
略歴
1873年ロシア帝国ノブゴロド州セミョノヴォに生まれる。
1878年母の手ほどきでピアノを習い始める。
1882年一家は破産しペテルブルグに移住する。
1883年ペテルブルグ音楽院に入学。
1885年従兄のピアニスト、シロティの推薦でモスクワ音楽院に転入。ズヴェーレフのクラスでピアノを学ぶ、同じクラスにはスクリャービンもいた。
1886年チャイコフスキーに認められる。アレンスキーに和声、タネーエフに対位法、シロティにピアノを習う。
1891年モスクワ音楽院ピアノ科を首席で卒業。次席はスクリャービンだった。
1892年モスクワ音楽院作曲科も首席で卒業。
1902年従妹のナターリア・サーチナと結婚。
1917年ロシア革命により家族と共にロシアを出る。
1918年アメリカにわたりスタインウェイと契約をしてコンサート・ピアニストとして活動を始める。
1942年家族と共にビバリーヒルズに移住。
1943年アメリカの市民権を得るがその約一月後癌により亡くなる(享年69歳)
ラフマニノフ最晩年の名演
シューベルト=リスト:セレナーデ
演奏スタイル
ラフマニノフは古今東西あらゆるピアニスト達から尊敬の念をもって神の様に崇められている一人であります。その理由としては彼のその巨大なスケールと個性、完全無欠なテクニック(今日よく用いられる狭い意味でのテクニックでは無く、まさしくありとあらゆる技術)、非常に端正な歌いまわしと、完璧すぎる演奏に由来していると思われます。時にあまりに簡単に弾いてしまうものだからどこか機械的で非現実的な印象を覚えてしまうほどですが実際は非常に人間臭く熱を持っています。本人は生活のために仕方なくピアニストとして活動していたようで自身の本分は作曲家であることを強く意識していたようです。 レパートリーは非常に広かったようですが、録音に積極的でなかったのも災いし人気と実力の割に残された録音は多くはありません。しかしながら何れの録音も恐ろしい程の水準の演奏が遺されており実力を窺い知るには十二分です。自作ももちろんクライスラーの伴奏での録音も遺っています。
ラフマニノフの妙技が詰まった快演
J.シュトラウス2世=タウジヒ:コンサート・カプリース「人生は一度だけ」
同時代の人物による評価
アルトゥール・ルービンシュタイン(ピアニスト)
『彼は、心から湧き出る生き生きとした黄金の音の秘密を持っていた。私はいつも彼の輝かしく、真似のできない音の魔力の支配下にあった。これらの音は、あまりにも急速に流れる彼の指と、過度のルバートについての私の不安を忘れさせ得た。そこには常に抵抗しがたい、クライスラーにも少し似た、感覚に訴える魅力があった。』
クラウディオ・アラウ(ピアニスト)
『全ての時代を通じての偉大なピアニストの一人であり、不朽の名声に真に値する非常に数少ないピアニストの一人だった。』
ゲンリヒ・ネイガウス(ピアニスト)
『ショパンの精神からの明白な逸脱にもかかわらず、感嘆の念を起させる。理由は、前人未到の技法と結びついたラフマニノフの有無を言わせぬ個性が、常に聴き手に我を忘れさせ、自分のほうへ引き寄せるからだ。同時にこれが、何らかの分別とか推定的先見とか、努力とか理性的前提などから生じるのではなく、自然発生的であるという理由からでもある。「彼にはそれが許されている」と私たちは感じる。』
フョードル・シャリアピン(オペラ歌手)
『私が歌を、彼がピアノを受け持ったというより、いつも二人で歌っていたのです。』
ラフマニノフの格言
『作品を千回も練習しなければならない、千回の実験をし、耳を傾け、比較し、判断しながら・・・・なぜなら音楽を志す者が音楽的効果を聴き取り、思いのままに制御することを学んで初めて、その人物は解釈者になり、彼が再創造したいと思う作曲家の偉大さに近づけるのだ。そして絶え間のない練習を通じてのみ、彼はそのような使命を達成できるのだ。』
盟友クライスラーの作品を弾くラフマニノフ
クライスラー=ラフマニノフ:愛の悲しみ
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